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小田原ってどんな町? | |||||||||||||||||||||||||
小田原市鴨宮の中里遺跡は東日本の本格的な弥生時代集落としては最大で最古のものといえます。弥生時代は本格的に稲作が始まった時代で紀元前4世紀に中国大陸や朝鮮半島の文化の影響を受け北九州に誕生し、次第に日本列島に広まった。人々は台地の上に住み、縄文時代の木の実の採取や狩猟の暮らしを続けながら細々と稲作を行う状態がしばらく続いたと考えられています。しかし中里遺跡での発見は今までの考えよりおよそ50年早く人々は進んだ技術で低地を切り開き、灌漑によろ本格的な水田稲作を行う大きな集落を築いていました。集落は中央に中核施設として大型の倉庫や神殿などの堀立柱建物が建ち、周囲に井戸が掘られており、集落から100mほど離れてたところに方形周溝墓という当時西日本から全区に広まりつつあった新しい種類の墓地でした。こうした大変めずらしい集落は瀬戸内東部の弥生土器が多量に出土したことから遠く離れた地方の人々と小田原地方に住む人々の交流が行われたことにより誕生したと考えられています。瀬戸内東部の土器は愛知県や静岡県などの太平洋沿岸で認められないことから海路によって直接小田原にもたらせられたのではないかと思われています。 ![]() 江戸時代、東海道を歩む旅人にとって小田原宿は特別なものでした。徳川幕府は江戸防衛のため、古来より暴れ川として地域住民の生活に脅威を及ぼした酒匂川へ橋を架けることも渡し船を使うことも許さず、旅人は渡し場から川越人足によって川を渡らなければならなかった。もっとも酒匂川は10月5日から3月5日までの間、仮橋が架けられた。その時期以外の歩行渡り時期を「夏川」と称した。「夏川」渡りに際して旅人は、酒匂、網一色(東町・寿町)・山王原(浜町~東町・寿町)三村から出没する川越人足の手を引かれたり、背負われたり、又は人足の担ぐ「輦台(れんだい)」を利用し渡りました。酒匂川を渡り疲れ切った旅人を出迎えるのが、江戸日本橋を発ち九つ目の宿にして初めての城下町である地「小田原」でした。人々は小田原の地で疲れを癒し、英気を養い、天下の嶮、箱根山に向かいます。 ![]() 御幸の浜と国道1号線の間にある千度小路界隈は戦国時代「船方村」と呼ばれ、船頭をちぢめ千度になった言われます。これとは別に「大量祈願の千度詣」にちなんでいるのではないかという説があります。千度小路の中ほどの路地にを入ったこの家の窓手すりには網をデザインしており、千度小路周辺の漁家や商家に今も多く残っています。大倉喜八郎は小田原・板橋の別邸、共壽亭にこのデザインが使われていました。千度小路の西端に近い「山室理容店」は国道1号線沿いにある「伊勢谷理容店」などとともに白秋に愛され、北原白秋の「あわて床屋」のモチーフの一つになったと言われます。 ![]() ![]() 小田原駅を青橋方面に10mほど行くと日向屋敷跡の標識が立っています。この日向屋敷とは改易された大久保忠隣の奥方の住居でした。小田原大久保家二代藩主の突然の失脚の原因は、今だ十分解明されていませんが、二大将軍秀忠の側近で声望も高かった忠隣らと、駿府の大御所家康を取り巻く家老たちの意思の齟齬は、二頭政治の世界では考えられないことではなかったと思われます。また豊臣家潰滅を目的とする家康にとっては、これに友好的な忠隣の行動は邪魔であったと思われます。また居城小田原城は北条時代の遺構を温存し、未完の江戸城に比べても不気味な存在でした。慶長19年(1614年)1月25日忠隣は謀反の罪で突然改易され、翌26日小田原城は本丸を残して全域破却されました。忠隣の配所は草津市でした夫人は小田原に留まることを許され、その屋敷がこの場所にありました。彼女が石川日向守家成の娘であったことから日向御前と呼ばれました。後代この地は14戸ほどの家臣の住居に分割されました。ただ日向屋敷は、むしろその分割屋敷の呼称として認識されていました。 ![]() 小田原駅近くのオシャレ横丁には小田原市指定史跡の北条氏政・氏輝の墓所があります。北条氏政は北条氏4代の領主 氏照は、氏政の弟で八王子城など5つの支城の城主でした。天正18年(1590年)豊臣軍およそ20万人に包囲される小田原城攻めで100日の籠城の末「これ以上民を苦しめたくない」と城を明け渡し、五代領主氏貞は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺 伝心庵(現在、永久寺所有)に埋葬されました。その後放置されていた墓所は稲葉氏が領主の時(1633~1685)北条氏追福のため整備されました。大正2年(1923年)の関東大地震では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元しました。いつの頃からかここをお参りすると幸せな出会いがあるという若い女性たちの姿が数多く見られるようになりました。願いが叶うと小さな鈴を納める風習ともなり垣根にはたくさんの鈴が結ばれているのが目につきます。 ![]() ![]() |
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ご 紹 介 | |||||||||||||||||||||||||
・小田原市歩け歩けの会(略称OWA)は、小田原市を中心に箱根や相模湾を臨み、名所旧跡に恵まれた神奈川県西湘地区に拠点を置くウォーキンググループです。 |
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協会のご案内 | |||||||||||||||||||||||||
・協会の設立 1965年5月に『小田原市歩け歩けの会』を設立 ・KWA加盟 2000年11月に『神奈川県ウォーキング協会』に加盟 ・活動方針 2013年4月から『明る<楽しく元気な例会を推進』することを目指しています
・例会参加費 神奈川県ウォーキング協会員200円 ・他協会の会員300円一般参加者500円(当日に入会される方は参加費が200円になります)
・【小田原市歩け歩けの会 入会方法】 ※ 年会費は次のとおり加入時期により金額が異なります。
※ 退会時は、入会金一年会費は返金致しません。
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小田原市歩け歩けの会 (神奈川県ウオーキング協会・加盟団体) TEL&FAX 0465-34-3265 電話は9~18時にお願いします |